2024年(令和6年)1月1日16時10分に、日本の石川県能登半島にある鳳珠郡穴水町の北東42kmを震央として発生。
当時 私は七尾市後畠町の自宅で、テレビを見て寛いでいた時です。
地鳴りの大きな音と共に大きな揺れを感じ、終わったと思う間もなく、次の大地震が襲ってきた。
柱のホゾが外れそうな勢い揺れ、家の倒壊も覚悟しました。下手に動けば危ない。外に逃げるよりも食卓テーブルの下に潜り込む事を選択しました。幸いに建物の倒壊は逃れ、揺れが収まると同時に外に飛び出しました。
周囲の状況は、皆さん青ざめた表情で呆然と外に立ち尽くし、これはただ事ではないと話し合った。
まもなく、津波警報の発令。自宅は高台にある為、避難の必要はなかったが、近くに避難所となる
七尾市城山体育館には被災者が殺到することは予想できました。
防災士の立場ですぐに民生委員の人と町内を巡回。1人暮らしの人や高齢者の安否確認と声掛けを。
暮れも押し迫った12月29日に縫製加工が終了。
正月明けにクッションマットを挿入し商品を仕上げる予定だった。、
一部挿入済みもありましたが、ほとんどがクッションマット挿入前の未完成状態。
元旦 夕方5時
荷物が散乱する事務所2階から在庫のクッションマットをかき集め、「おまもりぶくろ」と共に
自宅から車で2分の七尾城山体育館避難所の玄関前にスタンバイさせた。
体育館全面敷きの場合のレイアウト図は事前に作ってあった為、必要枚数は25枚と300人収容人数は
把握済みだった。避難所の開錠を待つ間にも、続々と体育館駐車場に避難者の車が殺到し、あっという間に
道路にまで車が溢れた。それから体育館の鍵が開いたのは夜7時半だった。
施設管理者と一緒に建物の安全確認の後、玄関前に準備してあった「おまもりぶくろ」を
そこにいた数人で中に運び入れた。と同時に、「1mの間隔を開けて1列 6枚敷いて下さい!」との私の掛け声と共に一斉に設営が始まった。
人数は把握できなかったが、次々にお手伝いしてくれる人が増え設営時間は約3分。
そこからクッションマットを2mに切り「おまもりぶくろ」の中に挿入する時間を含めても
時間にして約6分のアッと言う間の出来事だった。
避難された皆さんが力を合わせて、これから自分たちの休む場所を一生懸命に整える姿に、
この商品を作って本当に良かったと泣けてきた。
設営終了後は、誰一人、我先に場所取りする人もなく、各々、好きな場所に適度な距離を保ちつつ、家族単位で座った。体育館のど真ん中でも何の躊躇もなく座ったのがとても印象的だった。
「おまもりぶくろ」の存在さえも知らない人たちが誰の指示を受けることなくあっという間に設営し、マットまでも挿入。それがぶっつけ本番で出来た。これはとても凄いことだと思います。
また、「発災直後は仕方がない」と関東大震災から100年間見過ごされて来た課題に対して「発災直後でも出来るコトがある」を証明し体現できたことはとても意義がある事だと思います。
日頃から訓練をしていたら、もっとスムーズに、もっときめ細やかに、ゾーニングと高齢者、障害のある人、赤ちゃん連れのママさんなどの専用ゾーンを作る事も可能だと確信しました。
実際の様子(動画)
「おまもりぶくろ」を敷く
在庫していたプチプチマットやアルミ箔マット及びこれまでの
試作品をバラして追加で配る。
レンタル用畳8枚及び断熱フォームを追加で配布。
「おまもりぶくろ」の上に敷いてもらう。
(高齢者、障害のある人を優先)
寒くなかったですかが毎朝の挨拶。
日々、避難所が進化していくので大丈夫ですとのご返答。
背中に汗をかきましたとの声も。
追加で断熱材15枚を残りの人に配る。
「おまもりぶくろ」用の間仕切りを提案するもみんなの顔が見えなくなり、淋しいからこのままでとのこと。
(体育館は広いので各々が適度な距離を取っていた)
車いすの方々が気になり、段ボールベッドは2日目からお願いするも一向に届かず。
友人がエアーベッド2台持っていたので車いすの方に提案。
柔らかすぎて起き上がりにくいとのことだったので、下にコンパネを敷き
先にお渡しした畳をその上に。
ようやく間仕切りが届く。
荷物を移動することなく、「おまもりぶくろ」の上にすぐに設置。
間仕切りが届いたので、就寝時は間仕切りの上にブルーシートをかぶせれば更に温かくなると提案。
寒ければ、毛布に「カイロ」を貼れば温かいとのことで断念。
ようやく段ボールベッドが届いたが誰も使用しなかった。
ようやく段ボールベッドが届いたが誰も使わず。
「おまもりぶくろ」の御役目はココで終了。
段ボールハウスや屋根付きテントがもっと早く届けば、新たに区割りをすることなく、
荷物を持って移動してもらうこともなく、すぐに石川県金沢市の「いしかわ総合スポーツセンター」の1.5次避難所のように出来たのに。
避難所を転々とするストレスもいくらか和らげることが出来たのではないかと残念でならない。
やはり、体育館には、ブルーシートも毛布もストーブもありませんでした。
「おまもりぶくろ」がなかったらと思うとゾッとする。
1. 体育館内の避難が少なかった。
2. 自主避難所の数が多いと人手不足で行政や支援の手が回らない。
3, 人手が不足すると、在宅避難者にはもっと目が届かない。
(災害弱者の支援はいつも最後になる)
体育館をこれからも避難所に指定するなら、今すぐ冷暖房設備を完備の必要がある。
発災初期は、1か所に集めて一括管理することで支援が届くと言うメリットがある。
しかし今回、分散避難で10日が過ぎても、行政や支援団体の訪問が無かった。(七尾市では)
ただでさえ人手不足の中で、分散避難で更に人手不足で行政も運営側も大変だったと思う。
健康面も含め、お世話する人、避難者共に、とても不安な日々を過ごした。
災害弱者と言われる皆さんは今回の能登半島地震でも支援が遅れたと思う。
自主的に素晴らしい工夫で運営できている避難所もありましたが、そのコミュニティは日本全国に当てはまるものではないと思います。
発災初期の支援物資が届くまでの期間に、更に工夫と仕組みが必要だと強く感じます。
その一助に「おまもりぶくろ」が少しでもお役に立てれば幸甚です。
全国の皆様からの温かいご支援、励まし本当にありがとうございます。
引き続きのご支援を能登半島に賜りますよう宜しくお願い申し上げます。